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和束町茶業の歴史

和束には、東西に貫流する和束川に添い急峻な山地が連なる。川の流れによって作られた狭小な沖積地には水田が拡がり、平坦地と傾斜地の中間に位置する傾斜変換点には集落や里山が拡がり、日本の中山間地のどこにでも見られる、懐かしい農山村の風景がある。

  

ただひとつ異なるのは、見る者を圧倒する茶園の景観である。茶園は、山間傾斜地を幾重にも連なって、山の麓から斜面を駆け上がり、人を寄せ付け難い急傾斜地を攻略して、山の頂に迫る。山麓からの茶園景観はもとより、山頂からの眺望は絶景であり、これこそが、茶園を開拓した人、茶園を生業とする人達の営為の偉大さを雄弁に語るものである。

景観は、生業のため、自然立地条件を生かして人の営為により育まれてきたものである。和束の茶園景観も、茶づくりに研鑽した和束の人々によって、形作れてきたものであり、この景観の中には、和束の茶づくりの歴史が詰まっている。茶業史の編纂とは、一義的には、茶業に関わる歴史的な事実をとりまとめることであるが、茶づくりに思いを込めて力を尽くした先人たちの努力を記録し、これを将来にわたる資産として伝えることは、大いに意義のあることである。

和束の茶づくりは中世を起点として香味の優れた煎茶を産し、近世には多くの茶産地が自給生産に留まる中で、他産地に先駆けて商業生産を展開してきた。古くは和束郷と称し、東に位置する湯船から、東和束、中和束、そして西の西和束までの14ヶ村が、茶づくりの技術で交流、切磋琢磨し、明治維新を契機として海外輸出などへも果敢に挑戦した。これらの人の力の結集により、和束が、山城地域随一の茶産地に発展してきた経過の一端を、不十分ではあるが、茶業史としてとりまとめた。

日本茶の始まり
奈良時代に茶の飲用記録があるが、今日の日本茶のルーツは、僧栄西が宋から伝来した抹茶法である。その後、茶道家や為政者の庇護で品質向上を果たし、江戸時代の蒸製煎茶や玉露の発明により、今日の日本茶を構成する主要な茶種が出揃った。
和束茶業のはじまり
鎌倉時代の初期に東和束原山に海住山寺慈心上人が播種したとの伝承がある。天正年間には、大規模な植え付けの記録もあり、山城地域の中では、江戸時代以前から茶が生産されていた古い産地である。
茶を販売したのは、いつから?
大面積の茶の植え付けが安土桃山時代にあったとの記録から判断すると、それまでの自家消費としての茶生産から、商品生産としての茶業が成立したと考えられる。
販売戦略を持った"茶商"の登場
政治の安定に伴い煎茶需要が拡大し、和束郷では、他所に茶の販売を試みる者も現れた。生産者ではなく、茶の販売を行う茶商という業態が出現した。
茶が輸出戦略品目となる
輸出商品として茶が評価され、明治政府の殖産興業の推進政策により、主産地を中心に、茶園の新規造成や増産が行われた。
産地の原点は煎茶
明治時代の山城地域では、碾茶、玉露、煎茶が生産され、当時は全国屈指の産地であった。相楽郡では煎茶生産を主とし、生産量は綴喜郡と同程度であった。相楽郡の煎茶の大部分は和束で生産されていた。
製茶品評会への挑戦(明治時代)
明治時代には、殖産興業の政策で、内国勧業博覧会や製茶共進会が開催され、茶産地が茶の品質を競った。和束の生産者は果敢に出品を行い、初期には入賞を果たせなかったが、次第に製茶技術が向上し、湯船村や東和束村、中和束村から入賞者を輩出した。
日本茶輸出の略史
幕末以来、昭和30年頃まで、日本茶は輸出産業であった。しかし、不正茶の横行や度重なる戦争により翻弄され、好況と不況の繰り返しであった。
茶業の不振と紅茶生産(明治中期の茶業)
米国への輸出で不正茶が横行し、政府は茶業界に対して啓発、徹底をはかるための中央組織の設立を指示する。しかし、輸出は不況となり、茶園が多作物に置き換わる事例もあった。世界的に取引の多い紅茶生産の奨励も行われた。
生産量で圧倒するも、品質が及ばず(明治30年~昭和初期)
煎茶の生産量は、他産地に比較して増加していくが、品質面では、宇治田原の後塵を拝していた。茶の栽培、製造について、技術の平準化が大きな課題であった。
製茶工場設立の誘導(明治後期の茶業)
静岡県で清水港が開港され静岡が輸出主体の産地となったが、米国の茶税撤廃(明治34年)による茶価高騰を受けて、京都府においても山城茶の品質向上による輸出促進の動きが活発化した。
手揉みから機械製茶へ
輸出により各地の茶業が発展を遂げたのは、伝統的な技術に支えられた手揉み製法によるものであった。しかし、手揉みでは一人一日あたり数キログラムという生産量であり、到底海外の需要に応えることはできず、製茶工程の機械化が大きな課題となった。
機械製茶の推進
相楽郡や綴喜郡を中心に煎茶輸出のため、相楽郡製茶販売組合が設立され、第一次世界大戦による経済的影響を受けて労賃及び諸資材が高騰したため、余儀なく機械化が促進される結果となった。
和束にも機械製茶の波(大正前期)
和束でも模範製茶工場などができて製茶の機械化が進むと共に、製茶機械の販売代理店も登場して、機械化の促進がなされた。
人材育成と技術改善(試験研究機関の整備)
第一次世界大戦の後、国や京都府で茶業に関する試験研究機関が設立された。茶業界では、静岡などの産地に負けないよう、技術向上が必要なことから、茶業界の要請を受けて、京都府が茶業研究所を宇治に設立した。
品質向上の取組(茶園品評会とい製茶品評会)
大正後期には、毎年、京都府、山城各郡や各村において、茶園管理の徹底や啓発のための茶園品評会や製茶技術研鑽のための製茶品評会が行われるようになり、和束の茶生産者も多くの出品を行い、入賞を果たした。
品質向上には、肥料も大切(国際紛争で肥料の逼迫)
第一次世界大戦の後に、農作物の栽培には、それまで菜種油粕や大豆粕など有機質肥料を使用していたが、窒素を含む速効性の化学肥料、硫安(硫酸アンモニウム)の使用が飛躍的に増加する。市場流通品であるが故、肥料調達には経済的影響を受けた。
女性の力で摘採作業の効率化
摘採機(茶摘み鋏)が発明され、茶摘み労働の効率化の朗報であった。雑誌「京都茶業」には、「手ばさみの効果 4倍」として評価された。一方で、昭和10年頃には、鹿児島県より講師を招き両手摘み講習会を開催した。府内20カ所で女子青年団、女子青年学校、高等小学校、生産家子女を対象とした。
優れた製茶機械で茶を生産する
京都府では、大正後期頃から、手揉みは品評会出品などの上級茶を製造し、機械製茶は下級茶製造仕向けで、粗製乱造に陥りやすいことが懸念されていた。しかしその効率性を無視することはできず、様々な研究会や講習会を通じて、製茶機械研修が開催された。
機械製茶で和束茶業が躍進 
和束においても、機械製茶が主流となる中で、様々な技術研鑽の取組が行われた。これらの生産奨励の取組は、昭和15年の第4回製茶品位審査会を最後に、開催の記録は見あたらない。戦争の拡大により、嗜好品に変えて食糧生産が国策として推進され、府では樹園地整理し、麦作へ転換することとなった。
戦後の茶業界の動き
日本茶が食糧見返り物資に指定をされ、茶業復興され昭和22年には第一回関西製茶品評会が京都府で開催された。和束では、町村合併が成っていなかったが、和束郷茶品評会が開催され(昭和26年)た。また、終戦直後に茶業団体の再編があったが、昭和34年には生産者団体である、京都府茶生産協議会が史等村の茶業部会を束ねて設立されることになる。