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おわりに

今回、藤井夫妻の伝承からは、人力開墾の技術、茶業に係る諸生業要素の多様性などから、機械使用以前・エネルギー革命以前の和束茶業の様子が垣間見られた。また、摘み子の移動地・移動範囲、手摘みや手揉み方法なども少し明らかになった。本稿の史料や諸資料等への目配り不足は、言うまでもなく反省点であり次稿に生かしたい。しかし、現在ある和束町の景観は、ただ美しいのみならず、一歩足を踏み入れば、和束の茶業に生きた人々の知恵の数々でもあることが改めて分かった。今後も、聞き取り調査を町内で広く深く行いながら、山城地域の茶作りの民俗を追い、ひいては近現代の宇治茶の原産地の実態を少しでも明らかにできたら、と思う。

撰原で生まれ育った宗助さんは、幼いころから祖父母が耕す姿を見て育ち、農業を継がれた純農家であった。兵役を終えたのちは茶園拡大に心血を注がれ、一時の体調不良を乗り越え、寿美栄さんと共に二人のお子さんを養われた。また、壮年に入ってからは、民生児童委員や区長、区内の長福寺総代など、地域のために尽力されてきた。農業を知らずに嫁いだ寿美栄さんも、郵便局や電電公社等の激務の合間に、宗助さんと共に茶業や水田耕作に苦労しながら一心に勤しまれた。

藤井夫婦は、平成20年の春、半世紀以上に及んだ荒茶製造とその販売を終えた。現在は、宗助さんは菜園の手入れを、寿美栄さんは俳句作りを楽しまれ、お二人とも穏やかな日々を過ごされている。最後に、長年に渡った茶作りの折々の情景が詠まれた寿美栄さんの歌を記したい。

  • 茶の挿し木 名札もともに さしにけり(昭和50年) (「ヤブキタ」「ゴコウ」「アサヒ」「キクミドリ」の4種を植えていた。茶園も最大面積を誇っていた頃。)
  • 茶の和束 機音広がる 二人刈り(昭和52年) (この年に初めて二人用茶刈り機を導入。)
  • 学びつつ 茶期バイトす 異国の子(平成12年) (人手がいくつも欲しい茶の季節、中国からの留学生を受け入れる。)
  • バス降りる 茶摘みツアーの 声高し(平成14年) (近年増える来客数。でも町内は後継者不足が悩みの種である。)
  • 茶刈り音 谺は天に 農継ぐ子(平成15年) (近所に若夫婦2組がUターンされ、一所懸命茶作りに取り組む姿に嬉しさを覚えて。)
  • 新茶摘む あかね襷の 高校生(平成19年) (和束伝統の茶業を知り、若い世代が目指す新しい茶業に期待したい。)
  • 茶業やめ 楽と淋しの 風吹きぬ(平成20年) (この年の1番茶にて、茶業を廃業する。万感の思い。)

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